All I want for Christmas is you〜伊佐敷純


 原付を校内の駐車場の一角へとすべりこませた。ヘルメットを外し荷物を背負って職員室へと走って向かう。

「あー、ひげっぴ」

 職員室の前にたどり着くと、担当している5年生の女子がランドセルを背負ったまま立っている。おはよーなんて軽く手を振ってくる。なめたらだめだ。この年頃の女子はすでに「女子」だ。

「ひげっぴって言うな。つーか、何してんだ。教室の鍵か?」
「うん、今、取りに行ってくれてるから待ってるの」

 教室は通常、担任が開けるのだが、担任よりも早く来た生徒が開けることもよくあることだ。家の事情で早く来ざるえない生徒も少なくない。学校の校門は7時に開く。職員は8時までに出勤。生徒は8時30分までに登校するように決まってる。

 要するに、7時から8時30分までなら生徒はいつ来てもいい。サッカー部や陸上部は7時ごろから朝練をすることもある。オレも今日は駅伝大会の近い陸上部の朝練のために早く来たのだ。

 この学校には野球部は存在しない。ここの生徒で野球をしたければ地域のリトルリーグに入るしかなかった。実はサッカ―部も地域のサッカークラブなのだが、練習場としてこの学校の校庭が使われていて、教師も何人かがコーチもしている。そのため学校のサッカー部だと勘違いしている生徒も保護者も少なくない。

 少子化の上に年々、野球人口も減ってきている。学校の校庭も元々はリトルのチームが使っていたのに、いつのまにかサッカー部にとってかわられたという。サッカー経験者の上手い先生がきて、あれよあれよという間にリトルのチームを河原のグラウンドに追い出した、らしい。追い出したというと人聞きが悪いが、まぁいわゆるサッカーブームに後押しされた時代の流れってやつだろう。

 そんな理由もあって、オレは陸上部も見つつ、放課後や休日にはリトルチームの練習も見に行っている。もちろん自分は草野球チームに参加して野球を満喫している。

 教師になってからは、そんな生活のためか、残念ながら女っ気はこれっぽっちもない。

「お待たせー。あれ、ひげっぴ。早いね」

 職員室から出てきた女子は一人前に女みたいな物言いだ。今更「先生」って言えって言ったところで無理だとあきらめている。あだ名をつけられるのも、生徒たちから慕われていると思えば、悪い気がしなくもない。それにしてもどうしてオレのあだ名は「スピッツ」だとか「ひげっぴ」だとか促音とピがつくんだ。

 そこに同僚である先生がやってきた。先生は今年この学校に転任してきてオレと同じ学年を担任している。年は1つしかかわらないはずなのに、落ち着いていてしっかりしていて、女っ気のないオレの生活の唯一の潤いで密かに憧れていた。

「先生、おはようございます」

 女子は二人そろって、きちんと先生に挨拶をする。オレへの態度の違いは雲泥の差だ。その豹変ぶりときたら、しみじみ女という生き物の恐ろしさを思い知らされる。そんな二人に、先生もやわらかく笑顔を見せた。

「おはよう。伊佐敷先生もおはようございます」
「おはようございます」

 小さく頭を下げた。朝一に先生に会えるのはラッキーだ。これで一日頑張れるってもんだ。オレらの少しの沈黙に小5女子二人はキャーと笑う。

「朝から見つめ合っちゃってー」
「なっ、バカやろっ、つまんねーこと言ってんじゃねーぞ」

 焦って二人を小突くマネをすると、さらにけたたましく笑いだす。

「伊佐敷先生は人気がありますからね。あなたたちも好きなんでしょう?」

 先生はオレのように取り乱すことなく、にこやかに二人に笑いかける。好きなんでしょうと言われたものだから、二人はさらにキャーと誰がひげっぴなんかーと叫んで走っていく。なんかってなんだ。なんかってのは。そんなオレの叫びとは逆に、先生は廊下は走らないのよーと冷静に声かけをする。

 オレはといえば、自分の心のうちが生徒にもれたのかと焦ってヒヤヒヤドキドキしたっていうのに、先生は終始、教師としてパーフェクトな対応で感心してしまう。ただ、それも先生がオレのことを何とも思っていないということに他ならない。残念だけどそれが現実だ。

 だいたいこんな素敵な人に彼氏がいないわけがないのだから。オレの出る幕はどこにもないに決まっている。

「申し訳ありません」
「いえ、いいんですよ。ほんとにあの子たち伊佐敷先生のこと好きなんですね」
「いや、オレのことからかって楽しんでるだけっすよ」
「私もひげをはやそうかしら。そしたらあの子たちにひげっぴなんてかわいいあだ名で呼んでもらえるのにね」

 どこまでも冷静で大人の先生に、自分が情けなくなる。たった一歳、たった一年のキャリアの違いが重く大きくのしかかる気がした。

「純っ、純」

 オレを呼ぶ声に振り返れば、今度は6年の男子だ。リトルに所属しているせいか、馴れ馴れしさが半端ない。

「先生つけろ。先生を」

 女子相手とは違って、男子には、ことさらリトルのやつには遠慮はしない。がっと頭をひとつかみしてにらみをきかせる。が、相手も馴れたもんで気にもとめやしない。

「明日、夜来れんのって父ちゃんたちが聞いてこいって」
「あぁ、保護者会な。今日の夜に連絡するって言ってといてくれ」
「オッケー。じゃあな〜」
「オラ、廊下走んじゃねぇぞ」

 うーっすなんて適当な返事をして廊下を走っていく。なめられてる姿を立て続けに先生に見られて、恥ずかしくなる。けれど先生はそんなオレをバカにすることもなく、にっこりと笑っている。いかにも「微笑ましいですね」と言わんばかりだ。

「明日の夜は何かあるんですか?」
「あぁ、リトルリーグの親父会っす。リトルの父親はたいがい経験者なんで…」

 子供たちの手前は「保護者会」と銘打ってはいるが、野球好きの親父ばっかり集まった単なる飲み会だ。

「そうですか。じゃあ、明日の忘年会は欠席されるんですか」
「…あっ! 忘年会でしたね!」

 すっかり忘れてた。年配の先生が多いため、飲み会は忘年会と送別会の年に二回しかない。先生と外で会うのは初めてになる。

先生は参加されるんですか」
「はい。でも伊佐敷先生がいらっしゃらないとつまらないですね」

 社交辞令だとわかっていても、そういう風に言われると嬉しいものだ。もちろん、親父会はけって、忘年会に参加するに決まっている。こんな機会はめったにないのだから。

 楽しみができた。ヨシっと気合を入れて、陸上部の練習をみるためにグラウンドへと向かう足取りは久しぶりに軽かった。





 この学校に転任してきて1か月経たない4月の末に、最初の参観日があった。新学年になった最初の参観と懇談は一番緊張する。保護者たちは今年のクラスの担任を品定めをするものだ。それじゃなくても私は転任してきたばかりだし、厳しい目を向けられるだろう。さらに参観後の懇談では学級委員を決める選挙がある。家庭の事情も絡み合って一筋縄ではいかないことは承知だが、こちらも気が気じゃない。

 いつもよりも若干、自分が緊張しているのに気付いた。何とか気持ちを落ち着かせようと目をつぶって一息ついた。そのとき、隣のデスクの伊佐敷先生が突然立ち上がった気配を感じた。あまりに突然で驚いてその姿を見上げる。するとジャージと、その下に着ていた長袖のTシャツを脱ぎだした。

 伊佐敷先生は新任当初からこの学校で勤務しているそうだ。キャリアとしては一つ後輩になるけれど、校内のことは転任してきたばかりの私よりも当然よく知っていて、とても頼りになる。年も近いし些細なことも聞きやすい先生だ。最初紹介されたときは今時こんなガサツな先生がいるのかと思って正直ひいた。けれどそんな印象も1日経たずして変わった。内面に触れてみれば、伊佐敷先生のガサツさに隠れた良さがよくわかった。生徒たちに慕われ、他の年配の先生からもかわいがられていることも納得がいく。

 でも、突然服を脱ぐのはガサツとかそうじゃないとか、そういう問題じゃない。いったい何が起こっているのか。私は理解できなくて、頭の中が真っ白になった。

「い、伊佐敷先生?!」
「はい」

 伊佐敷先生は私が驚いていることを気にも留めない。上半身裸のままで私に向き合った。男性としては小柄な方に入る先生も鍛えられた腹筋や腕を見れば、頼もしい男らしさが匂い立つようで目のやり場に困る。

「どうしたんですか」
「あ、スーツに着替えるんっす」

 見事に鍛えられた上半身をあらわにしたまま、足元の袋から白い無地のTシャツを出してくる。

「さ…参観だからですか」
「そうです。一応。体育だったら良かったんすけど」

 Tシャツを着て、シャツに袖を通す。袖のボタンを留めながら、ちょっと困ったように笑う。Tシャツを脱ぎ着したせいで、少し乱れた髪が妙にかわいい。でも、うん、困ったの私の方なんですけど。参観だからジャージからスーツに着替えるという気遣いはできるのに、ここで着替えることには何とも思わないらしい。まさかと思うけれど、ズボンもここで履き替えないよね? 

「おーい、純先生。そりゃいかんでしょ」
「え、なんすか」

 教頭先生が、デスクの島の向こうから、おっとりと声をかけてきた。ナイスタイミング。教頭先生ありがとうございます。

「そんなとこで着替えたら、先生が困りますよ」
「えっ!」

 えって驚くところなんですか、ここ。伊佐敷先生は、え?と私を見た。それに応えるように私も目で、困りますと訴える。

「めんどくさくても更衣室あるんですから使ってくださいよ」

 周囲の他の先生も呆れたように笑いながら伊佐敷先生をたしなめる。伊佐敷先生は腑に落ちないような顔をしたまま、スーツが入った袋を手に上半身はシャツ、下半身はスウェット姿のまま、更衣室へと向かっていった。

「純先生は球児ですからねー」
「まだまだ、いい体してましたね」
「去年までは若い女性の先生がいなかったのでね、すいませんね、先生」
「あ、いえ」

 ということは、去年までは今みたいに職員室で着替えていたってことか。確かに、正直、ときめくほどいい体でしたが。うっとりと思い出しそうな自分にはっとして、それを顔に出さないように取り繕う。

「あの、きゅうじって」
「あぁ、ずっと野球されてたんですよ。甲子園もあと一歩だったとか」
「チームメイトや先輩後輩にも何人かプロ選手もいるらしいですしね」
「そうなんですか」
「ええ、純先生はリトルリーグのコーチもしてくださってます。先生は野球は?」
「いえ、全く…」

 そこにスーツ姿に着替えた伊佐敷先生が戻ってきた。スーツはすっきりと体のラインにあった細みのタイプで、意外にも似合っていて驚いた。ネクタイとボタンダウンのシャツの色柄の組み合わせも悪くない。ぼさぼさだった髪も更衣室で直してきたようだ。ジャージ姿では気づかなかったけれど、その着こなしは何となく女性の陰が見えた気がした。

先生も今度リトルリーグの応援に行かれたらいいです。担当している生徒も何人か所属しているでしょう?」
「あぁ、先生のクラスには2人いますよ」

 戻ってきた伊佐敷先生が生徒の名前をあげる。生徒のことを話す顔はとてもいい表情だ。生徒たちに慕われるのがよくわかる。

「ぜひ今度応援に来てやってください。あいつらも喜びますから」

 そう言って笑う。社交辞令だろうけれど、伊佐敷先生の野球をしているところは見てみたいなと本気で思ってしまった。

 そこで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。気づけばあんなに緊張していたのが嘘のように肩の力が抜けている。これも伊佐敷先生のおかげだろうか。一緒に教室へと向かいながら伊佐敷先生は教材を脇に抱えて、ネクタイを締め直す。けれど、教材を抱えて腕の自由がきかないせいか、かえって歪んでしまった。

「歪んじゃいましたよ」

 ネクタイを指すと、伊佐敷先生は立ち止まって、教材を足に挟んでネクタイをもう一度締め直した。教材を持ってあげようと手を伸ばすと、大丈夫っすとあわてて締め直すと教材を手に戻した。本当ならネクタイを締めてあげたいくらいだったけど、わずかに感じた女性の陰が、そんな私の心を押しとどめた。





 学区外の繁華街はイルミネーションがロマンチックな雰囲気を盛り上げている。忘年会は和やかに終わって、オレは先生と一緒に駅に向かっているところだった。年配の先生が多いため、つまみもアルコールもオレにとっては少し物足りないくらいで、このまま先生を送ったらリトルの親父会に顔を出そうかななんて考えていた。

 ちょうど、ボウリングやバッティングセンター何かがあるアミューズメント施設の横を通ったとき、先生がオレのダウンのひじをひっぱるようにつまんだ。

「バッティングセンターがありますよ。伊佐敷先生、打ってみてください」
「えっ」

 突然の先生の言葉にオレは驚いた。ひじの辺りをほんの少しつかまれたことも驚きだったのに、そんなこと言われるなんて思ってもみなかった。

「私、ずっと見てみたかったんです」

 先生はいつもの大人びた笑顔ではなくて、子供みたいな素直に何かを期待したような笑顔をオレに向けた。

「最初の参観の日に伊佐敷先生が球児だって聞いてから、いつか野球する先生見てみたいなぁって、ダメ?」

 ダメですか、ではなく。いつもと違う伸びた語尾が甘すぎる。僅かなアルコールが先生を浮き立たせているのか、いつもよりも隙だらけの言葉遣いに、くらみそうになる。

「いいっすけど…」
「じゃあ、早く、早く」

 楽しげにオレを引っ張っていく。まさかこんなデートみたいなことになるなんて、予想外だ。しかも得意な野球だ。いいところ見せられるんじゃないかと、わずかに期待もしてしまう。

 先生に彼氏がいないと知ったのは、ついさっきの忘年会の中でだ。年配の養護の先生が先生に聞いているのを、少し離れたところから聞き耳を立てていた。ちょうど隣にいた教頭先生はオレの様子に気づいて、したり顔で頷いて肩を叩く。恥ずかしいけれど、以前から先生以外の先生たちにはバレバレだったらしい。

 アミューズメント施設のバッティングセンターは、ゲーム感覚が強いのか、まともに打ててる客はいなかった。空いている打席に入る。手にしたバットは軽い。感触を確かめるみたいにくるりとバットを回すと、先生が拍手をした。

「すごい、すごい」

 いや、まだ何もしてねーんだけど。メットかぶってバット持っただけで、はしゃぐ先生はかわいくて、思わず口元がゆるむ。いつもの大人の態度で余裕のある先生も好きだけれど、こういうかわいい一面もひどく魅力的だった。

 パカッと音をさせて、ボールを打った。軽いバットは手に馴染んでいないので、シンをとらえてないけれど、力に任せてよく飛んだ。先生の感嘆の声を背中に聞いて、メットに手をやって振り返ると、先生は頬を上気させている。その赤くなった頬はオレの胸をかきたてるのに十分すぎるほどだ。

先生も打ちますか」
「えっ! そんな、したことないし」

 両手を胸の前で振る先生の手首をつかんだ。オレの見え透いた下心に先生は気づいてない。

「大丈夫。教えますよ」

 メットをかぶせて、打席に立たせる。一番遅い軟球の打席だ。後ろから手を回して、先生の手と一緒にバットを握る。

「きますよ」
「…はいっ」

 タイミングを計って先生の手ごとバットを振る。残念ながら空振りだ。

「あぁっ、くやしいっ」
「今の振り方ですよ」

 そう言って手を離す。名残惜しいけれど、さすがにこれ以上は自重しないと、やばいと思う。先生はオレのそんな葛藤も知らずに、一生懸命にバットを振っている。意外にも負けず嫌いか。球がなくなるともう一回だけと、また始めた。

 しばらく先生のめちゃくちゃだけど、かわいいバッティングホームに、もっとボールをよく見て、とか後ろから口出ししていた。自分が打ってスカッとするおもしろさ以外の楽しさがこんな風にあるなんて考えたこともなかった。

 パコっと音がして打球が前に飛んだ。

「当たった!」
「おーしっ!!」

 ガッツポーズするオレに先生はうれしそうな顔をして駆け寄ってくる。両手を挙げてハイタッチだ。パンっと合わさったオレの手のひらを先生はそのまま自分の指で絡めとると、握り合ったまま、飛びあがって喜んだ。興奮しているんだろう。やった、やったと喜ぶ先生はオレの手にこもる熱にまったく気づく素振りもない。

 結局、先生がバットにボールを当てれたのはその一球だけだった。けれど、その一球がオレの心に決意をもたせるきっかけになったことは間違いなかった。

 店を出ると、先生は大きく深呼吸をする。

「興奮しすぎたかも。疲れた〜」
「何か飲むもの買ってきますよ。オレ、いえもんが好きなんですけど、それでいいっすか」
「うん。ありがとう」

 すぐ近くの自販機に向かう。先生は空いたベンチに座って、上を見上げている。視線を追えば、キレイなイルミネーションの隙間から月がくっきりと見えた。

「大丈夫っすか」

 先生は顔を赤くしてオレの言葉にうなずいた。買ってきたペットボトルのお茶のキャップだけ外して渡す。

「ありがと」

 そう言うとオレの手からペットボトルを受け取った。先生が飲んだあとにはぁっと息をつくと、その息は白く現れふわりと消える。

 それを見ていると、このままこの楽しい時間を終わらせることがひどく切なく感じた。もっと一緒にいたい。この手で抱きしめてしまいたい。そんなオレの心の内に呼応するかのように

「このまま帰るの…」

 ヤだな。そう先生の口が動いた。





 隣に座る伊佐敷先生の体温がわずかに移ってくる。ぴったりくっつくわけではなく、だからといって隙間はない。服だけが触れているのか、体もわずかに触れているのか、そんな微妙な距離。

 忘年会で伊佐敷先生に彼女がいないことがわかった。少しおせっかいな年配の先生たちのおかけだ。相手が伊佐敷先生じゃなければ、こんな狭い世界でくっつけようとしないでと文句を言いたくなったかもしれない。

 伊佐敷先生に彼女がいないのはちょっと意外だった。参観のときのスーツ姿とか、運動会や遠足のときにもってくるお弁当とか、何気に女性の陰が見えていたような気がしていたからだ。けれど、それもおせっかいな先生たちのおかげで理由がわかった。つい最近までお姉さんと暮らしていたかららしい。そのお姉さんもこの秋にご結婚されて、今は一人暮らしになっているという話だった。

 それを知ったおかげで、少しのアルコールと街のイルミネーションが私の気持ちを浮き立たせて、勇気を出せさせた。

 そんな私の帰りたくない気持ちを伊佐敷先生は気づいてくれた。わずかな期待は隣に座ると少し距離をつめてきた伊佐敷先生の行動でさらに高まる。しばらく沈黙が続いた。伊佐敷先生は前かがみになって、口元を両手を覆うようにしている。

「実は…」
「うん」
「オレ、今年度で学校辞めるんです」
「…えっ」

 突然の告白に驚いた。今年度ということは来年の三月いっぱいという意味だろう。

「どうして…」
「母校の…高校に空きが出たんです」
「母校…」
「元々、母校でコーチしたくて、でも私立なんでなかなか空きがでなくて。空きがでるまでのつもりで今んとこに」
「それ、他には…」
「校長と教頭にはもう伝えてあります。指導者として高校野球に携わることがオレの夢だったんで」

 さっきまでの楽しい空気がすっと私の体の中から消えていってしまった。どうして今、こんなこと言いだすの。もっと楽しい話ができたはずなんじゃないの。そんな私の身勝手な苛立ちが無意識に口調に出てしまう。

「子供たちはあんなに伊佐敷先生のこと慕っているのに」
「オレもこんなに小学校の先生ができるなんて思ってもみなかったですよ」

 苦笑まじりの口調はもう決まったことだと告げている。それがまた私をなぜだか苛立たせる。もう変更は効かないんだと思い知らされたようで。伊佐敷先生の将来に口出せるような立場になんてないくせに。

「ずるいです。私も…私も伊佐敷先生みたいに生徒に好かれる先生になりたいのに。それを捨ててくなんて…」
「べつに捨てるわけじゃ…それに先生も立派な先生じゃないですか。オレなんてなめられてるばっかりです」
「そんなことないです!」

 思わず声が大きくなった。伊佐敷先生は少し驚いたのか目を見開いた。

「私なんて、いつも伊佐敷先生が羨ましくて…」
「オレは先生が…憧れっていうか、いや、あの、尊敬してますけど」

 尊敬なんていらないのに。私が欲しいのは…。伊佐敷先生に向けられる生徒たちの好意。そしてそんな生徒たちを優しく愛情をもって接する伊佐敷先生の…。

「私も伊佐敷先生の生徒になりたいくらいだったのに」
「はぁ…」

 私の言葉に伊佐敷先生は何て答えたらいいのか困ったように頭をかいた。自分の言った言葉がちょっと変だったことに私も気づいた。生徒になりたいって、そうじゃなくて、私が欲しいと思ったのは…。

「生徒…っていうか、伊佐敷先生の生徒に対する思いやりっていうか愛情っていうか、そういうの…じゃなくて、なんて言うか、その、ただ…」

 支離滅裂になっていく私の言葉をさえぎるように、私の手に冷たいものが触れた。伊佐敷先生の手だ。大きな手が私の手にそっと重ねられている。私を見る目はひどく優しい。その優しさが今の私には切なく感じる。何を言っても、伊佐敷先生が辞めることは変えられないと私だってわかっているからだ。

「…変なこと言ってごめんなさい」

 ただ、辞めてほしくないって伝えたいだけだった。ううん、そうじゃない。ただ、私の側からいなくならないでと思ってしまったのだ。そんなの私の一方的な想いで、伊佐敷先生の人生に関わっていいことじゃないのに。今さっきまでのほんのわずかの楽しい時間が、私を欲張りにさせたのだ。

 ずっと夢だった母校のコーチになれるのだから、祝福して送り出さなくてはいけないのに。私はうつむいて、重ねられた伊佐敷先生の手をみつめた。大きな手。ただ重ねられていただけの手がぎゅっと私の手を握る。顔をあげれば、伊佐敷先生と視線が合った。

「…だから、それでもよかったら、オレと付き合ってください」
「えっ…」

 私の手を握る伊佐敷先生の手にさらに力がこもる。合わさった視線の先の伊佐敷先生の瞳も熱っぽい。その熱は私の内側まで刺激して、ずっと前から抑え込んでいた想いがあふれ出てきそうだ。

「好きなんです、先生のことが」
「やだっ…」

 思いもしなかった告白に涙がにじんできて、思わずそんな自分に対して「やだ」と口をついた。

「あ、や、すいません」

 伊佐敷先生は手を引っ込めると力なく謝った。いつのまにかお互いの体温が混ざり合っていた手が急に寂しくなって、私は切なさで突き動かされるように伊佐敷先生の腕に抱きついた。

「違うんです、あの。やだは涙が出てきちゃったからで…私も伊佐敷先生のこと、好きです」

 ぎゅうっとしがみつく私の背中に伊佐敷先生の腕が回される。私の頭の上に重みがかかる。伊佐敷先生の顔が寄せられているのがわかった。そっと窺うように見上げると、伊佐敷先生の顔が近づいてきた。目をつぶると額にやさしさがおりてきた。額だったことが伊佐敷先生らしい気がして、無意識に笑みが浮かぶ。

「なんで、笑ってんすか」

 ちょっとすねたような口調に、さらに笑みがこらえられなくなる。

「伊佐敷先生だなぁって思っただけ」
「…それ、いいように取っていいっすか」
「お任せします」

 そう言って、もう一度目をつぶる。私のくちびるにやわらかく触れた伊佐敷先生のくちびるはすぐに離れた。

「なめたら痛い目にあいますよ」

 まるで宣戦布告のような言葉を発すると、今度はその言葉通り、伊佐敷先生の容赦のない愛情がめいいっぱい私のくちびるを攻め立てた。





Thanx&Love!
リクエストしてくださいましたいえもん様へ
20141224