4月に入ってすぐに稲実の寮に入った。合格発表後は土日も練習にきていたし、稲実の野球部にはもう慣れてきていた。とはいえ、ほとんどを新一年生だけで練習していて、先輩たちとはまだ混じって練習していなかったけど。
いつものように一年だけで、サーキットを終わらせるとマネージャーさんがやってきた。このマネージャーさんの顔は、たくさんいるマネージャーさんたちの中でもけっこう早くに覚えた。オレら新一年生に関わることが多かったし、タイミングが良くてテキパキとしている人だったからだ。
「じゃあ、成宮と平野はこっちね」
「オレらだけ?」
オレの問いかけに二年のマネージャーさんは、少し困った顔をした。この人、たぶん、オレに甘い。オレの直感が閃いた。マネージャーさんはオレの口調に注意はせずに、言い含めるように優しく言った。
「何人かいるんだけど、全員をブルペンには連れてけないでしょ。順番」
「ふーん」
やっと先輩たちと混じって練習できるらしい。最近捕手に座ってもらって投げてなかったから、楽しみでわくわくしてきた。先輩について行きながら、その高揚感がオレの口を軽くする。
「ねぇ、先輩。名前何ていうの?」
その先輩は振り返って、オレを見た。その表情をオレは知っている。姉ちゃんたちが、もうしょうがない子ねーって言うときと同じ顔だ。
「成宮」
と、先輩はオレの名前を呼んだ。この表情で成宮と呼ばれることは少し新鮮だ。なるみやと、まるっこい響きはいつもよりも甘く耳に心地いい。この人に鳴って呼んでもらえたら、きっともっと心地いいんだろうと思う。
「私は先輩なの。タメ口はしちゃダメ」
「はーい」
返事は素直に。だからといって言うことをきくかというと、それはまた別だけど。
「で、名前なんていうの?」
続けざまにそう言うと、平野っちは今注意されたとこなのにって驚いた。けど、先輩は苦笑しただけだ。ほらね、オレのこと許してる。こういう甘さはつけこまなきゃね。
「原田」
その先輩はそう言って笑った。うん、笑顔もかわいい。ふわっとあたたかい気持ちがわいてくる。そのせいで下の名前を聞きそびれてしまった。どうせなら下の名前で呼びたいもんね。へへっと笑うと平野っちは肩をすくめた。
先輩はオレたちをブルペンの入口で待たせると、中に入っていって、ブルペンにいる一人の大柄な捕手に声をかけた。その捕手はむすっとした顔をしてオレを見た。ちっと舌打ちしたのがわかった。なんだよ、気にいならないな。
先輩は戻ってくると、むすっとした顔のでかい捕手を指さした。
「二人で交代で受けてもらってね」
「はーい」
「はい」
ブルペンに入っていきながら、平野っちとじゃんけんする。
「おっ、勝ち。オレからね」
「何球ずつかな」
「オレが指示する」
いつのまに近づいてきていたのか、顔でか捕手がやってきていた。近くにくると思っていた以上に顔が大きかった。マスクのサイズよくあったな。
「まずはおまえからだ」
と、平野っちを指す。
「今、じゃんけんでオレが勝ったのに」
むっとしてくってかかる。顔でか捕手はちっと舌打ちをした。さっきから、その舌打ちが気に入らない。オレら新一年生なんかの球を受けるのが気に入らないっていうんだろうか。正捕手って感じじゃないけどな。ブルペンではエースらしい人が投げ込んでいる。きっと受けている人が正捕手にちがいない。
「口の利き方知らねぇのか」
「オレの球、ちゃんと捕れたら敬語使ってやるよ」
売られたケンカをオレが買わないわけがない。いや、オレから売ったのかな。まぁ、どっちでもいいや。基礎練ばっかであきてきたところだ。ちょっと熱くなれる勝負の一つもしないと気も晴れない。
「何やってんの」
割って入ってきたのはさっきのマネージャーさんだ。グラウンドの時計をちらっと見る。
「どっちからでもいいから、早くしないと、次がつかえてるの。成宮、投げずに交代する?」
「えっ、それはヤダ。ほら、早く座んなよ」
「ちっ、仕方ねぇな」
しっしと手をふって顔でか捕手を座らせる。そして左手にボールを手にする。手の中でその感触を確かめる。気持ちが上がっていく。
「ごめん、平野っち」
「いや、オレはいいんだけど」
「でも、いいもん見せてやるからさ」
自信満々でにやりと笑うと、まだ付き合いが浅い平野っちは、きょとんとしている。同じ野球の推薦できているけど、いろんなところから来ているから、全員が全員の実力を把握しているわけじゃない。ここでどっちが上かはっきりさせておくのもいい。エースはオレのもんだからね。
「先輩も見ててよね」
ブルペンから出ていこうとしていたマネージャーさんの背中に声をかける。驚いてふりむいた顔にボールを突き出して見せる。
「めちゃくちゃカッコよくって惚れちゃうからね」
ブルペンにいた全員がオレを見た。マネージャーさんも唖然とした表情のままオレを見ている。うん、いいんじゃない。これでみんなオレに注目したでしょ。てっとり早くていい。
「早く投げやがれ」
座っている顔でか捕手がしびれを切らして叫ぶ。
「スライダーとフォークとストレート、どれがいい?」
選ばせてあげるよと、挑発するようにグラブを前に突き出す。
「スライダー!」
パンっとミットを叩いて構えた。うん、的、でけぇじゃん。悪くない。でも敬語使う気なんてさらさらないからね。
指先に神経を集中させる。ぐっと足をあげて、渾身の力をこめて、投げ込んだ。ボールはミットに入らなかった。オレのコントロールが悪かったんじゃない。スライダーのキレがよすぎて、顔でか捕手は後ろにそらしてしまったのだ。
ブルペンは気持ちがいいほど静まり返った。
今、この状況を理解できているのはオレだけだ。しゃーと左手をあげる。予想以上の成果をあげたことに満足する。
「オレの勝ちだからね。敬語使わないよ」
まだ茫然としている顔でか捕手に宣言して、マネージャーさんのところに駆け寄る。
「ね、オレ、カッコよかったでしょ。惚れちゃったでしょ」
「え、あ、うん」
勢いに負けたのか、マネージャーさんは頷いた。よし、ここで畳みこめばコッチのもんだ。
「ね、ね、名前なんていうの。苗字じゃなくて、名前。名前で呼びたいな」
「えっ」
「おい、もう一度投げろ」
顔でか捕手がオレとマネージャーさんの間に割って入ってきた。もう、邪魔だよ。今いいとこなのに。
「うるさいな。後にして」
「次は捕ってやる。いいから投げろ」
「もう、顔でかいよっ。近いよ、離れて!オレは今、原田さんの名前聞いてるの!」
「雅功!」
なぜか顔でか捕手は自分を指さして言う。何か、テンション下がった。
「…アンタの名前聞いてないけど」
「聞いただろ」
一瞬シンとしたブルペンに笑い声が響いた。笑っているのはマネージャーさんだ。
「ご、ごめん。原田って私の名前じゃないの。コイツ」
「…はぁ!?何それ、え、どういうこと」
「だって、面倒な子だなと思ったから、私の名前じゃなくて、ブルペンで相手する原田の名前教えてあげたの」
面倒な子って、えー、このマネージャーさん意外に侮れないじゃん。てっきりオレに弱いと思ったのに。オレの思い通りに動くと思ったのに。
「何でもいいから、早く投げろ」
ぐいっと首ねっこをひっつかまれる。
「ちょっとまってよ、じゃあ、名前、なんていうの」
顔でか捕手に引っ張られながら、オレは必死にマネージャーさんに縋り付く。マネージャーさんはそれを振り払ってにべもない。
「原田に聞いて」
にこやかに手をひらひらと振って、ブルペンから出ていってしまった。予想外の展開に顔でか捕手に引きずられるがまま、元の位置に戻る。
「投げ終わったら、オレがアイツの名前教えてやるよ」
顔でか捕手はにやりと笑う。くそー、さっきの勝負じゃ完全にオレの勝ちだったのに。なんで立場が逆転してるんだよ。
「わかったよ、投げるから、ちゃんと捕ってよ」
オレの八つ当たりめいた叫び声がブルペンにこだました。
そうして、練習後にやっとの思いで名前を教えてもらった。ウキウキして寮に帰ったら、カルロスも白河も矢部もみーんな、あのマネージャーさん、さんの名前を知っていて、しかもすでにもうさんと呼んでいた。ショック!
17巻の雅さんの選手図鑑のエピソードより。
20140703