ゆっくりと青空は色を薄くしている。夏のキリっとした青さと白い雲はすっかり姿を消した。朝晩がすっかり過ごしやすくなってきている。
甲子園が終わると、一気に空気が変わった。代替わりというのはこんなにもと思うくらいすべてを変えた。それでも変わらないものもるはずだった。それはエースだ。控えだった成宮は当然のごとく一番を背負った。すでに控えの時から、入学した当初から成宮のためのものだったと言ってもいい。当の本人もそのつもりだったはずだ。何も変わらないはずだった。
けれど。
成宮がいない。そのことに気付いたのは練習が始まってしばらくたってからだった。練習場に来ているのは練習が始まる前に見ている。
「アイツ探して来てくれ」
すっと視界が暗くなったと思ったら、後ろから原田の声がした。振り向くと原田はすでに他の部員に何か指示を出している。この秋、キャプテンになった原田は今までみたいに成宮だけを気にかけていられなくなっている。
苦労するよね。
キャプテンでバッテリー。その大きな背中を見ると何でも軽く乗るんじゃないかと思える頼もしさがある。けれどその背中に乗る重圧は半端なく重いはずだ。
原田に返事はせずに成宮のいそうな場所を思い浮かべる。原田が探せと言ったのだからブルペンにはいないんだろう。部室か、用具室か。なんにせよ、部室も用具室も同じクラブハウスの裏手方向なのでそちらに向かうことにした。
途中に何人かとすれ違って、成宮を見たか聞くと、誰もが首を傾げて、ほんの少し心配そうな顔をする。甲子園の失投を悔いてか引きこもっていた成宮が出てくるようになってまだ日が浅いせいだ。以前なら、また鳴のわがままな行動かと苦笑いをする程度だっただろうに。
全く、調子が良くても悪くても人騒がせなエースなんだから。
成宮はすぐに用具室で見つかった。
成宮はベンチプレスのベンチに寝転がっていた。顔に帽子を載せているが、入ったときにピクリとも動かなかったから寝ているのだろうと思った。左腕は自分のおなかの上に、右腕はだらりと下に落ちている。
姿を見てほっとする。なんとなく、そっと近づいた。起こすのだから普通に近づいてもいいのだけれど、なんとなく、だ。そして、帽子に手を伸ばした。これもそっと取る。
帽子を取ると間違いなく成宮で。成宮だとわかっていたのに違えばいいと思うほど、その顔に胸がぐっと痛む。目の下にはクマができていて、目じりには涙の跡もあった。
あのシーンを思い出して眠れない日があると原田から聞いていた。昨夜もそうだったのだろう。もしかしたらさっきまで悔しくて泣いていたのかもしれない。
奔放でわがままで、調子が良くて、生意気な。きらきらと太陽が似合う成宮は、今はいない。眠っているときですら苦しい顔をしているほど痛々しい成宮を見ていられなくて目を閉じた。手にした成宮の帽子を胸に強く抱く。
私には何もできない。少しでも成宮の気持ちを楽にしてあげたいのに。
成宮が眠るベンチプレスを背にして地べたに座り込んだ。
意識ははっきりしているのに、かなり泣いたせいか瞼が重くて開けていられなかった。閉じた目にもわかる明るさも嫌で帽子を顔にかぶせた。体もだるくて、動かしたくない。泣くことがこんなに消耗することだったなんて、初めて知った。
今、自分を動かすのは怒りだ。自分への怒り。けれど思考が少しずれると怒りが後悔にスライドしてしまう。怒りのうちは体も動かせる。けれど悔やみだすと動けなくなる。どこかで自棄になる自分がまだいるのだ。そんな自分にも苛立ちを感じるのに、その苛立ちは自分を動かさない。
誰かが用具室に入ってきたのに気付いた。そろそろ誰か探しに来るかなと思っていたし、どうせさぼってたと雅さんに説教食らうことになるのはわかってる。自分から起きる気にはなれなくて、眠ったふりをした。
そっと近づいてくる気配に、やさしさを感じて、あぁ、さんだと思った。雅さんだったら遠慮なく「起きろ」と怒気を孕んだ口調で吐き捨てるはずだ。
瞼の裏が白くなって、かぶせていた帽子が取られたのがわかった。
それでも瞼はまだ重くて開ける気になれない。今までの自分なら探しに来てくれたさんに素直に甘えていただろうに。
さんの気配が動く。ジャリっと微かに音がして、自分の寝ているベンチに圧力がかかったのがわかった。
起こさねーの?
ゆっくり顔を気配の方に向けて瞼を持ち上げる。うっすらと開けた目にさんがベンチを背にしてうずくまっているのが見えた。オレが眠っていると思って、しばらく起こすことをやめたのだろう。
ほんっと、オレに甘いなぁ。
親と姉たちに甘やされて育った自覚はある。そのせいか、甘やかしてくれる人を嗅ぎ分けることが無意識にできる。初めてさんを見たときに、この人はオレに甘いって直感でわかった。その直感は間違いなかった。ただ、少し他の人たちと違ったのは、オレが、この人に甘やかされたいと願ったことだ。
瞼が自然に下りる。
さんがそこにいる、それだけでさっきまで無駄なほど力が入っていた体から力が抜けていく。キンと痛かったこめかみの痛みもなくなっている。こわばっていた表情もゆるんでいく。
やばいな、まじで寝ちまいそう。
自分の体が無意識にリラックス状態に陥ったのに気付いて、やばいと思ったけれど、それを抗う気力は残っていなかった。そうして意識を手放してどれくらいたったのか、すっきりと目が覚めた。こんなにすっきりと目が覚めたのは久しぶりだ。
さんの力ってすげー。
幅の狭いベンチで体を横に丸めて、さんの方を向く。自分の動く気配で振り向くかと思ったのに、さんはオレの動いた反動で、カクリと首を前に落とした。
まさかと思って、そーっと首を伸ばしてさんの顔を覗き込む。その顔はオレと同じように泣いた跡があって、そんな顔させた自分への怒りと苛立ちが湧いてくる一方で、さんの気持ちが嬉しくて舞い上がってしまいそうにもなる。
さんの腕の中に自分の帽子が抱きしめられるようにあることにも気づいて、無駄に力がみなぎってくる。
さんを起こさないように、ベンチプレスの逆側から下りて、さんの前に回り込む。しゃがみこんで、しばらくその顔を眺めた。
マジで好き。
だから、絶対にもう泣かせない。
その腕に抱かれている帽子はオレだ。オレの弱さの全部だ。さんがかぶっている帽子を自分の頭に乗せて、その腕からそっとオレの帽子を取りだして、さんにかぶせた。
がベンチプレスにもたれて座っていて、その様子を見るように鳴がその前にしゃがみこんでいる。おもむろに鳴がに帽子をかぶせた。
何してんだ。
覗き見していたわけじゃない。用具室の窓は上部につけられていて、自分の顔がようやく届く高さにある。通りかかったら中の様子が目に入ったにすぎない。
いつまでも鳴を連れてが戻ってこないので、探してみつけたのが、今の様子だ。
鳴のわがままに付き合うのは楽じゃない。オレは付き合う気もさらさらない。それでも振り回すエースの面倒は本当に面倒だ。その面倒を引き受けてるというか、押し付けられているというか、鳴の希望もあるのか。もしくは、本人の意思もあるのか、とにかくそのあたりはの仕事になっている。
は元々、できたマネージャーだ。だから鳴を上手くあしらえるのもてっきりそういう資質かと思っていたが、意外にもそれだけじゃないように見えることが、多くはないが、確かにあった。
ったく、甘ぇんだよ。
ちっと舌打ちが無意識に出る。この舌打ちはの甘さにじゃない。鳴に甘いとわかっていてを行かせた自分の甘さにだ。自分への苛立ちが粗暴な行動に出させる。
大きく音を立てて、用具室の扉を開ける。
「おい、鳴」
「しーーーーーーーーーーーーーーー」
振り向いた鳴はキッと猫目でオレをにらむと口に人差し指をあててオレよりも大きな声で叫ぶ。
「…ん」
その声でが身じろぎする。どうやらがうたた寝していたらしい。
「あー、もう、雅さんのせいで起きちゃったじゃん」
「オマエの声の方がでかかっただろっていうか、も何寝てんだ」
瞬時に何が起こっているのか察したのかは驚くほど早く立ち上がって、その顔を青ざめさせた。
「ごめん!」
「謝ることないって。オレもさんもちょっと疲れてただけだもんね。休憩って大事」
「休憩しすぎだ」
「あれから何分?!」
「44分」
きっかり時間を言うと鳴が細かい男はもてないとかなんとかぬかしやがった。
「やばっ、休憩の用意しなきゃ」
マネージャーとしての仕事である全体練習の中の休憩の用意がせまっているのに気付いて、は慌てたように用具室から出ていこうとする。
「さん、これ交換ね」
そのに鳴が練習用の帽子を振る。は自分がかぶっている帽子を取って、その中を見て、もう一度鳴を見た。にししっと笑う鳴にの顔が一瞬、愛おしいものを見る表情に変わった。けれど、すぐにその表情を消すと鳴に向かっていく。
「冗談でしょ。私のやつの方が高かったタイプなんだから」
ぽいっと鳴に自分がかぶっていた帽子を無造作に投げると、鳴の手からもう一つの帽子を奪う。
「えー、いいじゃん、いいじゃん。それの方がかぶり心地良かったもん」
「買うときケチるからじゃん」
「ケチったのオレじゃないもん、親だもん」
ここで帽子を交換することを拒否するのがらしい。帽子を交換しようという鳴の気持ちだけは、あの表情を見せた一瞬に、しっかり受け取ったんだろう。鳴も本当に交換する気なんてないだろう。こいつらには物自体に意味はきっとない。
面倒なやつらだな。
物よりも大事な何かを交換したかのような二人に理解はできないけれど、納得することにしておいた。
20140524