恋のサインは神様のきまぐれ 〜うれし涙



 その日は晴れてた。その時のことを思い出すと天気とか匂いとか、普段なら気にすることもないことも鮮明に思い出す。

 そう、その日はとっても晴れていた。ちょっと眩しいくらいで、その言葉を発した時の彼の顔は逆光のせいか上手く思い出せないでいる。

 駅で偶然出会った。他校の部員とは顔見知りになってきていたから、そうやって偶然出会うことは少なくない。もっとも青道は寮生が多いから駅で出会うというのは本当に稀なことだったはずだ。そして大概が会釈程度で終わる。けれどこの時、彼は近寄ってきたのだ。

「――――」

 言われた言葉が一瞬理解できなくて、聞き返す言葉も出ずに目の前の彼、伊佐敷くんの顔をただ見ていたのだ。

「…入ってなかったろ?」

 私が返事をしないので、自分の言った言葉が間違っていたのかと思ったのか今度は疑問形で聞いてきた。はっとして慌てて答えた。

「あ、うん、三年の先輩がいたからね」

 伊佐敷くんは「甲子園でベンチに入ってなかったな」と言ったのだった。

 この言葉にどうしてその時、私が理解できなかったのかといえば、まず理由のひとつに、試合を見ていると思っていなかったからだ。自分たちを負かした学校の試合なんて簡単に見れるものじゃないと思っていた。けれど実際にまだ2年の立場からすれば、次の対戦のために観戦することは当たり前だと今ならわかる。そしてもうひとつの理由、私がベンチに入っていないことに気付いたこと。ベンチなんてそんなにテレビに映らない。ましてやスコアラーとして入るマネージャーなんて、よっぽど話題になるようなことがないかぎり取り上げられることもない存在なのだから。

「あー、そっか。三年優先か」

 伊佐敷くんは納得したように何度も頷いた。そして私の方を見た。日焼けした顔でにやっと笑った。意地悪さを少し含んだ、けれど親しい者に軽口を叩く感じで…

「来年も入れねーぞ」

 その言葉の意味を私はすぐに理解した。宣戦布告だ。けれど腹立たしさはなかった。潔く私も受けてたった。

「大丈夫。私の予約入れてきたから」

 私が笑ってそう言うと、伊佐敷くんも豪快に笑っていた。そんな伊佐敷くんの制服の袖がマジックで汚れていたことに気付いた瞬間、しょうがないヤツだなって思った自分のことも思い出せる。

 あのマジックの色は、今、私の目の前の、この、ベンチと同じ。

「座んないんスか?」

 スコアブックを胸に抱きしめてベンチの前に立ったままの私にどっかりと座り込んだエースが怪訝な顔で見上げている。

「座るよ。去年、予約しておいた席だもん」

 私の言葉にエースは我が意を得たりと自信をその目に宿した。

 そう、これは私がずっと夢見ていたこと。だけど、どうして、楽しく笑いあったあの日のことがこんなに切なく思い出されるのだろう。伊佐敷くんはあの日のことを覚えているだろうか。そして今年も観戦するんだろうか。

 私はゆっくりとベンチに座る。すでに30℃を超えた気温のせいでベンチは熱くなっている。じわりと制服のスカート越しにその熱が伝わってくる。

 甲子園でベンチに入ってたな―

 そんな言葉を伊佐敷くんから聞ける日が、あの日のように偶然にくるだろうか。そんな日を望むのは厚かましいだろうか。

「あー、これな。取れねんだよ」

 袖の汚れを指摘すると、眉をしかめてた。あのマジックの汚れはまだあるんだろうか。

 こみ上げてきた涙の理由は、わからない。私は今、甲子園のベンチに座っている。だからきっと夢が叶ったうれし涙以外にあるはずもないのに。




20100826